<ネタバレあり>「夜明け告げるルーのうた」「この世界の片隅に」というアニメ映画を見て独自に考察してみた
今回は、思ったことを思ったまま記事にしてみようと思い立ちました。
なので、読みづらいのはご愛敬でお願いします。
夜明け告げるルーのうた
映画の見る順番ってなんていうか、大事ですね。
実は、今更ですが、「夜明け告げるルーの歌」と「この世界の片隅に」という映画を見たのです。
このブログにたどり着いて、今読んでくださっているあなたが、すでにどちらもご視聴いただいているという前提で進めますので、そのあたりはご理解をお願いします。
まず、「夜明け告げるルーの歌」
とってもキャッチ―でかわいらしいキャラクターと、ポップでカラフルな人魚姫「ルー」
この段階で、どんな映画なのかはさっぱりわかりませんでした。
主人公の男の子は今どきの、やる気ない系男子中学生。「カイ」
音楽がそこそこできて、そこそこイケメンで、そこそこ頭もいい。
でも、すべてにおいて全力は出さない、そんな男の子と、「バンドやりたい、有名になりたい!」主人公とは正反対のかわいいギャルっぽい、全力疾走な女の子「ゆうほ」
そして、彼女が好きなやんちゃ坊主だけど、すごくいいやつな男の子「くにお」の組み合わせで物語が動き始めます。
この世界では「人魚は恐ろしい存在」と語り継がれています。
日にあげて、焼き殺してしまった為に祟りがあるとか、人魚に大切な人を目の前で殺されたとか。
そのため、人魚は日の光を浴びることができず、人魚岩という大きな岩陰にお日様が出ない時間や、出ない場所をたどって音楽につられてやってくるというもの。
実際、人魚姫のルーは、音楽が大好きで、歌うし、音楽がなっている間だけ足が生えて踊りだしてしまう子↓
このアニメ、結末だけ言わせてもらうと最終的にはハッピーエンドなんだかなんなんだか、わからない結末で終わりを迎えます。
私なりの解釈で言えば、ハッピーエンドなんだと思います。
あくまで個人の感想として流してほしいのですが、私の解釈で見たこの映画は「かなり死を意識した作品であり、死をかわいくしてるけど、非常に強く意識させる作品だな」と言う感じです。
たぶん、他の人から見たら「何言ってんの?マイナス思考過ぎるでしょ、どこにそんな要素あったよ?」って言われるレベルですが、各所に違和感があり、それをたどった結果、現在の解釈にいたっています。
なので、この時点で不愉快な方は、ここから先の「夜明け告げるルーの歌」に関する私の文章は読まないことをお勧めします。
「夜明け告げるルーのうた」の大まかなあらすじ?
人魚の噂がある町に住む父子家庭の主人公「カイ」
すべてにおいてそつなくこなせる彼にとって日々は退屈そのもの。
人魚は恐ろしい存在だという言い伝えや、おじいさんもそのように語るが、音楽などに引き寄せられるという特性を持っている人魚に興味があったカイは、ある日不思議な力を持つ人魚の「ルー」に出会う。
音楽を通して、クラスメイトの一部(遊歩や国夫)とも打ち解けていくが、人魚の存在が大きくなるごとに町中大騒ぎになり、あちこちで問題が起きるようになる。
人魚は恐ろしいという認識が広がってしまっている中、なんとか誤解を解きたいと願う遊歩や国夫に対し、未知の生命ルーが白日の下にさらされるのを嫌がっているのか、はたまた独占欲からか二人と再び対立してしまうカイ。
結果的にルーは人目に触れ、一躍人気者に。それに嫉妬した遊歩はプチ家出を決行したせいで(実はご令嬢)人魚が食べたという話になり、ルーは殺されかけてしまう。
それと同時に人魚の呪いとされる、海面上昇などの異常が起き、ルーたち人魚は全身全霊をもって人間たちを助け出し、忽然と姿を消してしまうのであった。
解釈・死の世界、死後の楽園説
で、今読んでくれているあなたは、それが「OK」ということでよろしいでしょうか?^^
この映画は、現代の若者を非常によくとらえた作品だと思っています。
解釈その1・やる気ない、かったるげな男の子が、じゃなくて、純粋に「この世界に、今自分は必要とされているのかな?」と思っているのだろうなというあたりです。
それを主人公は決して口にしません。
セリフにはありませんが主人公は「自分なんかいなくたって同じだ」って思っているんじゃないかなと思う節が所々にあります。
特に父子家庭なので、主人公の設定としては「母親に必要とされなかった自分(実際は決してそんなことはない)人魚の呪いを信じて海沿いの街なのに海に近寄るなと言われて、いろんなところで優しいがゆえに言いたい放題言われる尊敬できない父親(これまた、優しいのは事実ですがそんなことはない)さらに職人気質な頑固ジジイ(最終的にはかなり柔軟で粋な対応をしてくれます)」この家の中で、自分なんていなければいいと思っている子供(主人公)の立ち位置なんじゃないかな、と。
無口ではあるけど、反抗することのほとんどない優しい少年なので、父親に関しても最初は「自分がいなければ、本当は、もっと自由に生きられるんだろ?」と思っていそう。
解釈その2・そして、未知の生命体である人魚のルー。
未知の影が主人公のあたりをかなり初期の段階からちらついています。
なので、主人公はその正体を突き止めようと、よりのめり込みます。
おじいちゃんの警告も無視して、です。
ですが、あの状況であれば、無視するのは当然のことです。
私だってあんなことがあったら、誰になんと言われようとある程度の接触を試みようとするでしょうからね!
ずっと海に怖いイメージを持たされ、近寄るなと言われてきた主人公と主人公父は、金づちで泳げません。どちらもそのことをいじられるシーンがあります。
主人公は顔がいいので、バンドデビューして有名になりたい女の子、遊歩に「そこがいいんじゃん、かっこいい!」と言われていますが、お父さんは水産業勤めなのでいじられている姿を見たくない主人公は、その場を駆け抜けたりします。
人魚を見てみたい主人公は「近寄ってはならない」と言いつけられている人魚岩のほうへ、バンド練習しているという二人に強引に誘われてついていきます。
で、当然、しばらくして人魚、ルーと会い、人魚はとてもやさしく、皆を助けてくれるハートフルな展開になりますが、この人魚そのものが、死の象徴だと考えると非常にしっくりくる点がいくつもあるのです。
まず、主人公のいる町は寂れた港町という設定です。
おじいちゃんは傘職人だけど、父親は漁業の一社員。
どちらも経営は低迷気味。
解釈その3・主人公は、最初からやる気がなく、死が頭をかすめている状態だとすれば、初期の初期から人魚であるルーの影がちらついていたのもうなづけます。
そして、未知の存在であるルーをバンドの二人にも見せた時、二人は若干ルーを怖がります。
「ねえ、ほんとにそれ、大丈夫なの!?」と遊歩は大騒ぎ。
でも、主人公は多少驚きはするものの拒絶反応は見せないんですよねぇ。
解釈その4・人魚は、かみつくと、対象を不死の人魚の仲間にしてしまうという力があり、最初にその力を見せるのは、たぶん殺処分を間近に控えた保健所の犬たちのシーンです。
ルーの特殊な力で水を持ってきて、犬を籠から出し、水に入れるとかみついて上半身が犬、下半身は魚という人魚ならぬ犬魚を生み出します。
(たぶん、犬魚になった時点で犬ではないので、死んだということになるのではないかと)
沢山の犬は一見ルーによって命が救われたように見えますが、実際描いてる部分は「沢山の犬(や猫)が保健所に連れていかれ、毎日のように殺処分されている」という現状だと思います。
実際よく出てくる一匹のブルドック?は遠泳で自分も泳げないくせに主人公をさんざん「ペースが落ちてきてる」だの「うちの愛犬にも負けるトロさ」だの罵ってきた遠泳監督が捨てた犬でした。
この子↓
あの監督の多くはないセリフから察するに新しいプードルはかわいいから飼ってるけど、ブルドックはかわいいと思えなかったから捨てた、あるいは保健所へ引き渡したのではないかと。
解釈その5・そして、昔は人魚ランドなどで観光も栄えていたので「人魚賛成(肯定)派」と「人魚嫌い(否定)派」と極端に人物たちも描かれているわけですが、ご令嬢のバンドの女の子のおじいさんは人魚肯定派=意外と死を受け入れている(楽観視している?)人なのかなと。
そしてその息子(遊歩からすれば父)は大の人魚否定派=まだ人生半ば&現役社長という立場もあり死そのものに拒絶反応を起こしている人
主人公のおじいさんや、おっかないお婆さんも人魚否定派なのですが、この二人は大切な人たちの死を間近で見たために、死への恐怖が非常に強い人達なのではないかと考えられます。
バンドの二人は若いのでそもそも死がよくわかっていない。
わからないから怖いけど、それ以上に未知のものに興味があるという立ち位置なのかな?
主人公の父親は、最初人魚に関して特別否定も肯定もしません。
あくまでおじいさんが「恐ろしいものだ」と叱るから、自分も注意を促しているという感じ。
でも最終的には「人魚がいてくれて嬉しい」と発言をしているので、どこか思考は息子である主人公と近かかったのかもしれませんね。
で、バンド娘の父親がやらかして大波乱が起きるのですが、このあたりで主人公が本気とやらを見せはじめてくれます。
解釈その6・そして、誤解が解けたおばあちゃん、おじいちゃんは自分たちの大切な人たちに連れられ海に引き込まれ、自身も人魚になります。
多分このあたりは、津波などの大災害で逃げ切れなかった人たちが海に流され、亡くなったってことじゃないかと思っているのですが……。
というか、それ以上におばあちゃんのオババの姿のままで足だけ人魚って誰得って思ったのは内緒……(笑)
解釈その7・人魚の呪いとやらとルーたち現役人魚たちの力により、水圧に耐えきれなくなった人魚岩は崩壊してしまいます。
この壁が崩壊するシーンは主人公が本気を見せるというところでもあるので、主人公の精神的な壁が、何かをきっかけにして崩れたのだと思うのですが、人魚は日の日差しを浴びると死んでしまうので木陰の亡くなったこのまちにはもう住めない状態です。
解釈その8・お爺ちゃんや町の人達から差し入れされた傘のおかげでなんとか姿を保っていたルーたちですが、主人公はルーに大告白。
ですが、そのあと人魚一行は忽然とその場に傘だけを残していなくなってしまいます。
このあたりは主人公が死に対して「ずっと一緒にいたい」という発言をしたことからようやく「生きていたい」と思えるようになったのではないかと。
死と生は表裏一体なので、生きていたいと思うことで死の象徴である告白をしたルーたちは消えてしまうものの、それを別段引きずった様子も見せない主人公。
そしてお爺ちゃんの遺影があたりまえのように飾られ、父親に素直に「ありがとう」といい、「お母さんにもあってくるね」と自分からようやく行動を起こし始めました。
一番最後の〆がバンド娘、遊歩の「ねぇ、明るい街になったね!」というセリフなのですが、これは主人公が前向きに歩み始めた事に関するセリフなのではないか……などなどと思っております。
この世界の片隅に
で、連続ではないのですが、別日に「この世界の片隅に」を見たわけです。
これも戦争映画で有名なので多くは語りませんが、死が題材になったお話です。
今の若者が考える「生と死」と当時の愚かさが招いた大衆の「生と死」を扱った物語にダブルパンチでいろいろ考えさせられました。
どちらも直接的すぎる表現はしていないのです。
ルーのうたは、深読みしないと死の影は対してちらつかないし、「この世界の片隅に」に関しては主人公が戦争をほとんど感じさせないほど穏やかでおっとりした性格なのであたりは戦争で生々しいのにそんなに生々しく感じないという構成です。
でも、主人公の周りには復興の希望と絶望、戦争の爪痕が大量にまとわりついており、みんな穏やかで優しい世界だからこそ非常に泣きたくなる作品でした。
「この世界の片隅に」のあらすじ
多くは語る必要がない作品だと思うので公式サイトから引用をさせていただくと
戦時下の日常を生きるすずの想いがより深く描かれるーー。
2016年11月12日に公開され、深い感動の輪を拡げていき、大きな反響を呼んだ映画『この世界の片隅に』。多くのファンと上映劇場の熱意に支えられ、公開から1日も途絶えることなく600日以上も、日本全国どこかの劇場で上映が続けられた。
本作は新規場面を付け足した別バージョンの作品だ。たくさんの新規映像を加えることで、「さらにいくつもの人生」が描かれる。
これまでの映画『この世界の片隅に』とは一部主題も変わってくるため、別の題名をつけた「もうひとつの映画」として制作される。
そして、すずたちの心の奥底で揺れ動く複雑な想い、も描き出される。より大人な印象となるすずにもまた会いに来てほしい。広島県呉に嫁いだすずは、夫・周作とその家族に囲まれて、新たな生活を始める。昭和19年、日本が戦争のただ中にあった頃だ。戦況が悪化し、生活は困難を極めるが、すずは工夫を重ね日々の暮らしを紡いでいく。
ある日、迷い込んだ遊郭でリンと出会う。境遇は異なるが呉で初めて出会った同世代の女性に心通わせていくすず。しかしその中で、夫・周作とリンとのつながりを感じてしまう 。
昭和20年3月、軍港のあった呉は大規模な空襲に見舞われる。その日から空襲はたび重なり、すずも大切なものを失ってしまう。
そして昭和20年の夏がやってくるーー。
というもの。
あの時代にはかなり珍しいおっとりした性格の主人公スズは平凡な女の子として描かれていますが、そんなおっとりスズさんも円形脱毛症になるほどストレスがあったようで、そもそも、「15で姉やは嫁に行き」が体現されていた時代って想像もつきませんよね。
小姑がいわゆる「できる女」すぎるために嫁いびりらしいこともするにはするのですが、おっとりの前には歯が立たず。
私の祖母はスズさんが嫁に行った自分あたりの時代に生まれた人だとは思うのですが、それでも祖母も相当の変わり者で、この小姑のような性格です。
婿は自分が気に入った人と、自分の両親も武家と農民で駆け落ちし、家の縁を切った人だったためか、下の子たちの学費を稼ぐために戦後は15から働きだし、23にはお局、行き遅れとうわさされる自分になっても嫁に行かず、30過ぎに当時は高齢出産となる子供を産み、気が強く、夫にもたてつく切れ者でした。結婚前は彼女もハイカラさんだったようです。時々「きっちゃてん(喫茶店)」の話もしてくれます。
当時は
・長女は早くから市へ仕事に
・15~18で結婚
・嫁に入ったら家に入って専業主婦
・水平様(?)が来たならば、自分の嫁でも世話役として女を差し出さねばならない
・23は行き遅れのお婆
・戦後は焼けた瓦礫から無事だった缶詰を拾い、木にはどこかの家屋の瓦礫や破片、戦死した人たちの肉片がぶら下がっていたり
・学校からは火葬の煙が上がり、常に死体が校庭に山積みでその死体を狙ってカラスが飛び回る光景
これらが、当たり前であった時代。
考えられますか?私は想像もつきません……。
最後には癒し系ドキュメンタリーに救いを求めた
どちらも死が在在なのだなと思った私にはだいぶ刺激が強すぎてこれ以上耐えられそうになかったので、アニメ版ゴジラを見る前に「可愛い動物たち72選」という海外のドキュメンタリーを見て現在クールダウンを図っております。
いやー、映画って見る順番本当に大事ね!
これらを見た後、しばらく「スカイ・クロラ」を思い出していましたもの↓
スカイ・クロラから感じ取ったのは
「結局、人は自分の存在意義を強くさせるのは死であり、争いである
でも、争いは愚かである
人は身近に争いがないと平和を保ち続けることができない」
そうして生まれたのがすぐ死んでしまう代償として戦わせ続けられる一生子供の姿のままのチルドレンたちの存在。
どこかの国ではもう撤廃されたようですが、人形を戦争に出すなんてありましたよね。ちょっと「ターミネーターかよ」なんて思いましたが……。
人形はいつ暴走して人間に刃を向けてくるかわからない。争ってはかなく散る人間でなければならなかったってことなのかなぁ、なんて、スカイクロラでは考えました。
ここまで見てくれた、あなたの考察はどうでしたか?少しでも面白いと思ってもらえたら幸いです^^
最後に!
映画を見るときは、「死」「癒やし」「死」となにか一つ別なものを入れることをおすすめします。
☆海貝あかり